高麗人参が日本で認識されるまで

韓国や中国で作られていた高麗人参ですが、日本に伝わった経緯には興味深いドラマがあります。
元々「朝鮮人参」と呼ばれていましたが、伝来したのは聖武天皇が納める700年代にさかのぼります。
渤海といって、満州から朝鮮半島と今のロシアの沿岸部までの地方は一つの国でした。

このころ、日本との交流は渤海の国使によって行われ、その国使が持ち込んだものの一つに朝鮮人参があったのです。
10.8kgを聖武天皇の進上したことが歴史の始まりです。
朝鮮人参は室町時代に来日した朝鮮使節団から、足利家への礼物として贈呈され、江戸時代になり使節団の訪日が再開した後も、徳川将軍家への贈答品に必ず朝鮮人参が入っていたようです。
将軍に30kg贈るだけなく、大御所や幕僚、大名までにも贈られている記録があります。

現在の長崎県対馬と朝鮮国は密接な貿易関係にありましたが、このころも朝鮮人参は貿易の第一品目とされていました。
支払いとして高品質な特鋳銀が使われていたようで、いかに朝鮮人参を輸入することが大きな使命だったか分かります。
しかし、このように朝鮮人参を輸入するために多額の特鋳銀で支払わなければならないことについて、徳川八代将軍の吉宗は日本国内で栽培することはできないか、様々な手を打ち始めました。

享保4年(1719年)、朝鮮通信使が江戸に滞在している間、どのように作れば良いか家臣に繰り返し質問するように命じます。
ついには密命を出し、津島藩主の宗義誠に朝鮮人参を3本江戸に献上させました。
このころから、江戸の小石川菜園にて栽培をスタート。良い品種ができるように試行錯誤を繰り返します。

比較的良い状態で発芽したものは「御種人参」と呼ばれるようになります。
現代では東京ドームになっている所で栽培を試みていたというから驚きです。
江戸で栽培を試みている間、対馬では引き続き朝鮮人参の輸入を続けていますが、吉宗が薬材として調査せよと命じたからだと言います。

このような経緯を経て、ようやく元文3年(1738年)に日本橋で御種人参を発売するに至りました。
このあとも、朝鮮人参だけを専売する朝鮮人参座を開設するなど、朝鮮人参の国産化と国内での流通の礎が気づかれたのでした。
「朝鮮人参」から「高麗人参」と呼ばれるようになったのは戦後です。
輸入元の韓国に配慮し「薬用人参」として販売されましたが、のちの薬事法に「薬用」の部分が抵触するということで、高麗人参という名前に変わったそうです。